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001 カッパマイクと光波無線(ミニFM放送局の思い出)
カッパ7EC(ファースト電気)、エコーFB2(光波無線)

2002年4月15日


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カッパマイクをフィーチャーしたファースト電気の広告 
(「初歩のラジオ」1975年7月号目次ページ)
 

 電波を使ってお話する・・・子供の頃は夢でした。そして、その夢をかんたんに実現させてくれたもの・・・それがワイヤレス・マイクでした。

 昔、「初歩のラジオ」と「ラジオの製作」という2つのラジオ関係の専門誌がありました。1970年代に中学、高校生だった私と同世代、または上の世代の方々はよくご存じでしょうし、「ラジオの製作」の方は数年前まで健在でした。

 その表紙から近い最初の方のページに、「カッパマイク」の広告が出ていました。FM放送帯を使ったワイヤレスマイクです。電波法が改正されて、微弱電波にシビアになる前の話。こうしたワイヤレスマイクはずいぶん数多く出回り、しかも到達距離は100m近いものでした。写真で見るこのカッパマイク、テレビなどで歌手が使っているマイクそっくりで、とても格好よく、子供心にもあこがれでした。黒い筐体に赤の風防(そう、当時はウレタンの風防がまぶしくて!)のついたマイク、「カッパ・7EC」を1年年上の友人と一緒に購入したのは中学になり、お年玉の総額が5000円を超えた頃でした。この広告を見てみると、定価が3、800円と記されています。

 友人は我が家から80mほど離れたところに住んでいて、お互いに家屋の2F部分。「超!」見通し距離です。それぞれにマイクを持ち別の周波数に設定し、そうして、FMラジオをつけると・・・・。そうなんです。これで同時通話の可能な無線電話のできあがりです。実はこの原理は、近所に住む洋服屋さんの息子さんがすでにワイヤレスマイクを持っており、そこで、さわっているうちに、周波数を変えることができるのを知り、思いついたものでした。

 生まれて初めて現金書留封筒を購入し、それに現金を入れて送ります。今と違い、当時は通信販売というと、なんとなく、いかがわしいイメージのある時代でした。不安な気持ちで待ちます。やがて、ある日、学校から帰宅すると、小さな箱が届いていました。さっそく、マイクを発砲スチロールの箱から取り出し、付属のプラスチック製の赤く細いドライバーを持って、マイクの周波数を設定します。当時の私の住んでいた地方ではFM局はNHKが85.8MHz。それ以外はすべての周波数が空いている状況でした。そこで、お互いの周波数を83MHzと78MHz付近(だったと記憶しています)で設定し、そして、小さなトランジスタラジオをオンにして、ダイヤルを相手の周波数付近に回します。

 「あ、かすかに入る!でも、雑音が多い!」と叫んだその時、相手からも偶然同じセリフが聞こえます。しかし、無意識にマイクを動かすと「あ、そこそこ。そこでストップ!」FM電波の微妙な伝わり方と、受信の調整を体で学んだ瞬間です。こうして、お互いに電波を最良の状態で送り、受けるスポットを見つけ、毎日、毎晩の交信が始まります。数分でおわることもあれば、1日中、交信しっぱなしということもありました。そして、いったい、どれだけ長い期間交信し続けたか。中学から高校までですから、4、5年に及んだような記憶があります。

 ある夜は、お互いに、マイクで励まし合いながら徹夜の受験勉強をしたり、ある日は自分が大好きなカーペンターズの新アルバムを手に入れて、さっそく、このマイクでかけて二人で共に聞いたり・・・・。まさにラグチューそのものでした。このときの経験こそ、今の無線の原点になっているのに違いありません。



目立つ広告の光波無線。
上京後遊びにいったら、なんとフツーの一軒家。
おじさんが一人でやっていて拍子抜けしました。
でも、ホントにお世話になりました。感謝!!
(「初歩のラジオ」1975年7月号表紙裏)
 



 そうして、その後、高校生になったころ、我が家のマイクは、外部(マイク)入力をそなえた「光波無線」製のFMトランスミッター、「エコーFB2」に変わっていきました。外部入力があることから、単なる交信だけでなく、カセットテープレコーダーに接続し、ラジオの番組もどきを作り始めました。しかも、事前に収録、編集し、それから、決まった時間に放送するという手のこみようです。もちろん、放送局名(FBCという放送局でした)までつけて。「特集!ある交通事故に隠された事実」などと、社会派もどきのタイトルのわけのわかならい番組を作っては一人悦に入っていたり、効果音付きのミニドラマを作ってみたり、あるいはDJをやってみたりして、一人で何でもできてしまうラジオというメディアの世界にどっぷりとはまっていきました。

 こうした試行錯誤を繰り返している頃、1977−8年頃、FMミニ放送のブームともいえる事態が我が町に起きます。気がつくと、近所に同じ製品を持つ中学生、高校生が数人現れたのです。そこで、お互いにネットワークを組み、中継しあったこともありました。前記のように、当時はまだ民放もなく、FMはNHK1局という時代です。しかも人口2000人の小さな街。地域サービス(と当時は本気で思っていた)ということで、毎夜毎夜、音楽をかけたりして放送局ごっこを楽しんでいました。

 自分の電波がいったいどこまで届いているのか、トランスミッターから音楽を流したまま、深夜、FMラジオをかかえて、イノシシと出会わないことを祈りつつ、山道を走ったことも何度もあります。

 しかし、各局長さんはそれぞれに成長し、一人、また一人と受験戦争に呑み込まれ、やがて、ワイヤレスマイク、FMトランスミッターのことなど忘れ去ってしまう時が来ました。私の故郷のFM放送帯に再び静けさが戻ります。その後、1980年代になってから関東などを中心にミニFM放送局ブームが起きることになるのですが、そのとき、すでにマイブーム終わり。それがちょっと自慢だったりします。(^_^;

 あれから、二十数年。いつのまにか電波法も改正され、微弱電波に関する規制が変わり、もはや同じような遊びはできなくなってしまいました。しかし、今、自分が趣味で無線機に向かうとき、時折、あの原点ともいえるワイヤレスマイクの体験が生々しくよみがえってきます。自分の電波が遠くまで届いたときの興奮。今の子供達に手軽なFM放送バンドで同じ体験ができない以上、アマチュア無線こそ、その喜びを体験できる唯一の機会です。高齢化の言われるハム、アマチュア無線の世界ですが、子供達をぜひ、引き込みたいものですねぇ。



当時はアマチュア無線やBCLなどの記事が満載でした。
(「初歩のラジオ」1975年7月号)
 

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