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001 私のBCL事始め

2005年3月(2008年3月30日加筆訂正)

この項はKDXCのオンライン書籍、「Radio Days 〜懐かしい人からの手紙〜」へKAY2が書いたものに加筆訂正をしたものです。



 子供の頃、我が家とラジオはあまり“いい関係”ではありませんでした。我が実家のある山陰地方の小さな町は、NHK、民放ともに送信所から遠く、おまけに日本海をはさんだ朝鮮半島や中国、ソ連からの放送やジャミング電波が強力に入感し、昼間、出力の弱い地元中波放送局は見事につぶされている状態でした。

 そういうわけで我が家では真空管式のラジオが物置にうっちゃられ、トランジスタ・ラジオも一度壊れたまま修理もされずにほったらかしにされているという状態でした。自然と私はテレビっ子に。新聞のテレビ欄暗記の得意な少年でした。とはいえ、テレビもNHKと民放が2局だけ。覚えやすかったのも確かです。(^_^;)

 そんなある日、友達の一人が「電子ブロック」なるものを購入。小さなブロック一つ一つに電子部品が入っており、それを並べることによって様々な電子回路ができあがるというものです。そこで、友人と一緒にラジオを組み立ててみたのですが……。やはり中国語や朝鮮語以外何も聞こえませんでした。山の上に持っていき、大きなアンテナを張ったのですが……。「地元の中波放送ってやっぱり聞こえないんだぁ」というのが友人と私が得た唯一の成果でした。

 小学校の高学年のころ、すでに例のBCLブームが始まっていました。休憩時間や放課後になると教室の片隅に何人も集まり「ラジオ・オーストラリアが聞こえた」とかそんな話でにぎわっています。多分、皆さんも同じような光景を学校で目撃したり、実際にその当事者だったことでしょう。

 私は(?)といえば、「そうか、ラジオで地元の中波放送が入らなくても、短波で海外の日本語放送を聞くことができればそれもいいなぁ……」などと考え、親に「BCLラジオを買って欲しい」とねだるのですが、「そんな高価な物は貧乏な我が家には買えない」という一言が返ってきただけでした。それでも、ときおり、親の顔色を伺いつつ、機嫌のよさそうなときに持ちかけてみるのですが、返事はいつも同じでした。

 一方、このころ、近所に住む友人と一緒にお年玉でFMワイヤレスマイクを購入。さらに、壊れてお蔵入りになっていたAM/FM2バンドのトランジスタラジオを修理し、友人とお互いにFM放送バンドでの交信(当時は電波法が今ほどきびしくなく、かなりの距離まで電波が届きました)を毎日楽しむなど、BCLではないものの、電波の世界にどっぷりとはまり始めます(この事は「モノインプレッション」のページ、「カッパマイクと光波無線」に詳しく書きました)。そのラジオで夜になれば国内各地の中波放送が良好に受信できることを初めて知ります。それまで日本語が中波ラジオから全く聞こえなかったのは昼間しか聞いたことがなかったからだったんです。そうして、そのころ人気の『欽どん(欽ちゃんのドンといってみよう!)』など、一生懸命聞き始めました。ラジオを日常的に聞くという習慣がこのころできます。また、北京放送など海外の中波放送も入ることを知りますが、こちらは内容が面白くはなく、積極的に聞こうとは思いませんでした。

 中学生になり、BCLブームは高まる一方、そして一般雑誌でさえもBCLの特集が多く、指をくわえて見ているままだったある日のことです。突然、私は病気で倒れてしまいました。おまけに緊急入院&手術ということになってしまったのです。息子を可哀想に思ったのか、それとも気が動転したためなのか、両親は、いきなり、SONYの当時の人気機種、ICF−5900を買って病室に届けてくれたのです! 安月給で手術代もばかにならないのに、たいへんな出費だったと思います。

 と、これが、私にとっての短波放送との出合いです。病気に感謝……。(^_^;)

 で、そこから始まったBCLですが、もともと“流行”や“ブーム”などの嫌いな“ひねくれ者”の私は、他の人のやっていることはやらないという“あまのじゃく”主義で、特に当時熱狂的なブームだったベリカードの収集は一切しませんでした(初めてベリカードをもらったのは趣味を始めて20年後でした……(--;))。

 そんな妙な自分自身のスタンスを正当化するためには、なにか格好いい理由を考えなければいけません(笑)。そこで「自分のBCLは英語学習の手段だ!」と称して、よく入る英語放送をひたすら聞き始めます。いやぁ、生意気でイヤな少年ですよねぇ……。まぁ、結局、そこから、今にいたるまでほぼ同じような形で趣味を続けることになってしまいました。途中からアマチュア無線にも世界が広がっていきますが、結局、30年近く同じ趣味を続けていることになります。

 多くの人々が成人して離れていったこの趣味、なぜ私の場合、続けることができたのかを考えてみると、「英語」にこだわったことにつきると思います。

 とにかく「英語を勉強するためにBBC、VOA、ラジオ・オーストラリアなどをずっと聞き続けることが絶対役に立つはずだ」と聞き始めたころから無条件に信じていました。当たり前の話ですが、中学生の頃は、聞いていて意味なんて全くわかりません。でも「英語は意味がわからなくても一日中シャワーのようにあびれば将来役に立つ」という、いまどきよく新聞広告などで見かけるセリフは30年前、すでに一部の英語学習雑誌(『百万人の英語』など)で主張されていました。単純な私はその主張を鵜呑みにしたのです。とはいえ、インターネットなどのない当時は、普通に日本で生活しているとそんなことは実際には不可能でした。ところが、唯一の例外がBCL。うまく周波数を合わせると一日の大半、ずっと英語漬けになることに気付いたのです。おまけに『VOAの聴き方』という単行本が出ていたり、アルクという出版社から『世界の英語放送』などというムック本も毎年出ていました。英語放送に関する情報には事欠かなかったのです。



この頃は英語放送に特化した書籍がいくつも出版されていました。

 結果……のめり込みました……。朝起きたらVOA。聞き終えて学校に向かう直前、タイマーでFEN―現・AFN―(当時は短波でも放送していました)の大好きなDJ(Charlie Tunaなど)の録音をセット。帰宅して、それを聞き、さらに、夜になるとVOAかBBCをかけっぱなし。深夜はNSB(現ラジオNIKKEI)の英語DJ番組(Tokyo Forum - Get Together)を聞くという日課。休日は日中ずっとFENをかけっぱなしという毎日でした。

 実際、毎日聞くことで自分の耳や自分の出す音が影響を受けていることを後ほど実感します(もちろん私の英語は正統なる?ジャパニーズ・イングリッシュから抜けられませんが……)。それが面白いと感じてきたから、ここまで続けてきたのでしょう。やがておもしろさが高じて学校では英語を専攻。そして卒業して英語を教える仕事に。さらに、転職して英語を使う仕事に……。結果、ラジオからますます離れられなくなってしまうという「好(?)循環」が続いているというわけです。そういう意味で、ラジオは私の人生の師であり友であり、そして恩人です。

 もう一つはインターネットです。30代は誰もが会社で忙しくなり、自分自身の時間が持てなくなる時期です。自分の場合、このWEBページを開設し、そこに定期的に英語放送の周波数データを発表するようになってからは、それが良い意味での強制力になり、ラジオから離れることが出来なくなってしまいました。

 もともと多(雑?)趣味な人間でありながら、ここまで長く続けてきた趣味は他に音楽くらいなものです。今日も短波放送を聞きながら「ラジオと出合えて自分はラッキーだなぁ」としみじみ思っています。


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